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泉谷しげる 紅白 手拍子 【春夏秋冬】 2014

泉谷しげる 紅白 手拍子 【春夏秋冬】
※チャンネル争いで負けたためリアルタイムで観れたません・・
(ガキ使になってましたがそっちも全部観ておりません。



泉谷しげる 紅白 手拍子 【春夏秋冬】

泉谷しげる、観客に毒づく「手拍子してんじゃねぇ!」/紅白

サンケイスポーツ 1月1日(水)4時0分配信


泉谷しげる、観客に毒づく「手拍子してんじゃねぇ!」/紅白

第64回NHK紅白歌合戦、泉谷しげる=東京・渋谷NHKホール(写真:サンケイスポーツ)

 「第64回NHK紅白歌合戦」が31日、東京・渋谷のNHKホールで行われ、総勢51組が出場。紅白初出場の泉谷しげる(65)はブログを更新し、晴れのステージに臨んだ。前日30日に都内で行われたライブのリハーサルでスタッフを殴り、開演時間が30分遅れたことが判明。ブログで「それぞれの楽曲を理解できてない?ライブスタッフを怒鳴り、殴ったりもしたが~その行為はホントに申し訳ない事、心より謝罪する!」とつづり、本番では「春夏秋冬2014」を情感豊かに歌い上げた。

 曲の間奏で「手拍子してんじゃねぇ!」と何度も観客に毒づき、希望のメッセージを送るなど泉谷節が炸裂。終了後「俺はテレビの向こうで寂しく過ごしてる人に歌ってるんだよ」とシャウト。鉄拳制裁については「ごめんね

生い立ち[編集]
青森県青森市長島出身の両親の元で生まれ、3歳から東京都目黒区東山で育つ[1]。自宅は鴻之巣橋たもとにあった[1]。目黒区立東山中学校卒。
東京都立目黒高等学校を1週間で中退後[1]、いろいろな職についたが長続きせず。ローリングストーンズに憧れ、ロックバンドを組んでいたが、18歳の時、自宅が火事で全焼しエレキギター、アンプなど機材を全て失い、やむなくフォークギター1本で出来るフォークシンガーとなる[1]。
この頃には漫画雑誌『ガロ』に投稿し、漫画家を目指そうとしていた。

1970年代[編集]
1971年 - ライヴアルバム『泉谷しげる登場』でエレックレコードからデビュー。
古井戸(加奈崎芳太郎・仲井戸麗市)、ピピ&コット(佐藤公彦・よしだよしこ)、生田敬太郎らと唄の市コンサートに参加。
この頃、RCサクセションや古井戸と一緒にライブを行う。
よしだたくろう退社後の看板スターとして、エレックレコードを支える。
1972年 - セカンドアルバム『春・夏・秋・冬』をリリース。加藤和彦がプロデュースを務める。タイトル曲「春夏秋冬」は彼の代表曲となる。なお、シングルでも発売されたが同名アルバムの音源ではなく、オムニバスライブアルバム『野音 唄の市』収録のライブバージョンでシングル化された。シングル盤ジャケットに「実況録音盤」と書かれている。また、1988年には、ロックアレンジで再シングル化されている。
その後も、『地球はお祭りさわぎ』(1972年)、サディスティック・ミカ・バンドが参加した『光と影』(1973年)をリリース。中川イサト、西岡たかしとの連名アルバム『友だちはじめ』(1973年)や、イエロー、ラストショウを従えロック色を打ち出したアルバム『黄金狂時代』(1974年)を発表したのち、エレックレコードを辞める。
後に、デビュー前のスタジオ録音デモテープ集がアルバム『ベースメント・テープス』として発表される。
また、フォークシンガーとしてデビューする際に、東京都出身では、ハクがつかないので、エレック社の方針で、青森出身として売り出した。
1975年6月 - 小室等、井上陽水、吉田拓郎とフォーライフ・レコードを設立。その第1弾アルバムとして『ライブ!!泉谷-王様たちの夜-』(1975年)を発表。
1976年 - フォーライフ4人衆の連名でアルバム『クリスマス』発表。
1976年 - アルバム『家族』、『イーストからの熱い風』(1976年アメリカ録音のライヴアルバム)を発売。
当時の泉谷はアルバムを作る際、次のアルバムタイトルを既に決め発表していた。
『ライブ!!泉谷-王様たちの夜-』の帯に『家族の前の…』など記してある(再発物ではない)。
1977年 - ストリート・ファイティングメンをバックバンドにしたロックアルバム『光石の巨人』(1977年)を発表し、これを最後にフォーライフレコードを去る。
加藤和彦プロデュースのアルバム『80のバラッド』、『都会のランナー』を発表。
このころの泉谷作品は、ゆったりとしたロック・ヴォーカルを志向。加藤和彦もゲストヴォーカルで参加。
評価は高かったがセールスには結びつかずライブ数を減らし、俳優の仕事が増える。
1979年6月 - テレビ朝日系ドラマ『戦後最大の誘拐・吉展ちゃん事件』に出演し、テレビ大賞及び芸術祭優秀賞を受賞、役者としても注目を集める。

1980年代[編集]
1980年 - 石井聰亙映画『狂い咲きサンダーロード』にて美術を担当し、ブルーリボン美術デザイン賞を受賞。また音楽として『電光石火に銀の靴』、『翼なき野郎ども』、『国旗はためく下に』の各楽曲を提供。
石井聰亙映画『爆裂都市 BURST CITY』にて美術を担当。自らも俳優として出演している。
ニューウェイヴ志向のバックバンド"BANANA"を従えた『オールナイト・ライヴ』を発表。
1980年 - 松竹映画『ええじゃないか』(今村昌平監督)に出演し、タイトル曲「ええじゃないか/IBO!今夜は徹夜だぜ」発表。
1982年 - ポリドールに移籍。ポリドールではスタジオアルバム『NEWS』、『39°8′』、『ELEVATOR』、ライヴアルバム『REAL TIME』発表。
自主制作ミニアルバム『スカー・ピープル(忌野清志郎プロデュース)』発表。吉田建・村上”ポンタ”秀一(ドラム)を中心としたLOSERをバックバンドに活動。仲井戸麗市、下山淳も参加。アナログ志向を全面に打ち出す。
『週刊少年ジャンプ』の投稿コーナー「ジャンプ放送局」で、泉谷のキャラクター性がギャグ投稿の特集にされ、泉谷人気が復活しはじめる。
1986年6月 - 自らが監督・美術を手掛けたビデオ作品『デス・パウダー』を発表
1988年 - ビクターに移籍。ビクターからアルバム『吠えるバラッド』『SELF COVERS』『HOWLING LIVE』『'90sバラッド』『叫ぶひと囁く』『下郎参上(下郎名義)』『WILD BLOOD』『メッセージソングス』『追憶のエイトビート』を次々と発表。
この当時、テレビ大阪の番組『竜馬で行く!』のメインパーソナリティーを務める(共演:太平サブロー、越前屋俵太)。
氷室京介のソロデビューアルバム『FLOWERS for ALGERNON』に収録の「独りファシズム」の作詞を担当。
1988年12月 - 自ら監督・出演したオリジナルビデオ『ネイビー・ロックウォー・撃破せよ』を発表。海上自衛隊の全面協力を得た特撮シーンが話題を呼ぶ。

1990年代[編集]
1991年 - デビュー20周年を迎え『泉谷しげる with LOSER ツアー 1991 叫ぶ人轟く』を全国10都市で開催。
1993年 - 北海道南西沖地震被災者救援のために「お前ら募金しろ!」と言うフレーズで、日本ユニセフ協会の協賛を受け「一人フォークゲリラ」と称したゲリラライヴを日本各地で敢行。その模様は自主制作ライヴ盤として発表。シングル『なぜこんな時代に』『激しい季節』は被災した人たちへの応援歌。
1994年1月 - 長崎・普賢岳噴火災害救済チャリティーコンサート「メッセージソングの日」を主催。同年8/16には日本武道館、10/28には島原市文化会館にて、「日本をすくえ'94」を各々開催。
1995年1月 - 阪神・淡路大震災発生の際は、いち早く被災者救援のために立ち上がり、震災当日の夜から北海道南西沖地震の時と同じ「お前ら募金しろ!」と言うフレーズでゲリラライヴを日本各地で敢行。また、震災直後の神戸に入り、オールナイトニッポンの特番で被災者の生の声を中継した。そんな中で、同じく被災者救済を訴えていた大江千里と共に嘉門達夫のチャリティーシングル「怒りのグルーヴ 〜震災篇〜」のレコーディングに参加。その功績により、年度終盤にもかかわらず1994年度(第32回)ゴールデン・アロー賞特別賞受賞。
北海道南西沖地震・長崎雲仙岳噴火・阪神大震災のチャリティーライブを開いた際には、忌野清志郎・小田和正・吉田拓郎・さだまさし・大江千里ら多数のアーティストが駆けつけている。
オウム真理教事件が起きた頃、ライブなどで「黒いカバン」を歌う時には途中で麻原彰晃を動かぬ証拠と掛けたオリジナル曲に変更して歌った[2]。
1996年8月2日 - 今までのキャリアの集大成ビデオ『泉谷しげる大全集・全身全霊』を発売。
1996年10月 - 日本テレビ系バラエティー番組『香取慎吾のアジアのMIKATA』にレギュラー出演。初のバラエティーレギュラー出演でタレントとしても最盛期を迎える。

2000年代以降[編集]
2001年 - アフガニスタン侵攻に際して都内でゲリラライヴを敢行した。
メジャーレーベルと自身のIZレーベルからアルバムを並行リリースしている。
盟友忌野清志郎らと忌野・泉谷・スパイスマーケットを結成。ライブツアーを行うなど精力的な活動を行う。レコーディング予定もあったが泉谷は『Dr.コトー診療所』のロケを優先。それ以来、忌野とは音信不通となってしまった。
2004年 - ガガガSPのコザック前田とのユニットでシングル「生活/永遠のウソつき」もリリース。後に前田のソロアルバム『東須磨は夕方6時』にも2人が歌った「生活」が収録されている。
2007年 - 今作で5期目となるテレビアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』のオープニングテーマを歌った(2008年より変わった)。
2008年5月11日 - 還暦記念ライブを実施。秋、7年ぶりとなるニューアルバムをポニーキャニオンよりリリースすることを発表した。 ライブは3部構成で、それぞれの部各20曲を披露。60曲としていたものが3部は20曲の後にアンコール2曲を入れ合計62曲に。参加メンバー:藤沼伸一(g)、人時(b)、大島治彦(d)、中西康晴(kb)、小林香織(sax,flu)、仲井戸麗市(g)、下山淳(g)、泉谷しげる(vo,g,バンジョー)
2009年5月 - 忌野清志郎の死去に際し、「あいつの死は受け入れたくない、葬儀にも行かないし、冥福も祈りたくない。俺の中ではあいつは生きてるんだ」とコメントする。実際に、2度行われた忌野のロック葬に泉谷が現れることはなかった。また、破天荒な性格が忌野の影響によるとも明かした。5月5日より公式サイトにて「忌野清志郎・伝」という連載を開始した。
2010年 - 「地方活性化」を合言葉に各地のイベントをギター一本で回る「ロード・オブ・ライブ」を本格的に始動。還暦ライブの際、公式発表されたこのプランをミュージシャンとしての原点回帰と位置づけて精力的に取り組んでいる。
2010年 - 口蹄疫流行の中、公式ブログ「兎猫豚(うびょうとん)のみらい日記」において、宮崎の応援と、政府やマスコミへの憤りを表明。FAO国連食糧農業機関の支援を日本政府が拒否した事や報道が不十分である事などにも触れ、海外メディアの取材を受けることで状況の改善を試みている[3][4]。
2011年3月 - 東日本大震災に際してGACKTや真矢と共同で被災者救援募金活動「SHOW YOUR HEART」(心意気を見せろよ)を展開。
2013年11月 - 第64回NHK紅白歌合戦に出場が決定。紅白初出場となった。



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