中村勘三郎 野田秀樹 大竹しのぶ【一周忌】 [芸能]
中村勘三郎 野田秀樹 大竹しのぶ【一周忌】
通常、納骨は四十九日に行うことが多いが、好江さんは決して勘三郎さんを離そうとは
しなかった。
さらに好江さんはお骨の一部をダイヤモンドにして、それを指輪にして身につけている。
夫の親友である野田秀樹さんや大竹しのぶさんと一緒に夫の遺体を隠す計画も考えたほどです」(好江さん・以下「」内同)だが結局、死から10日後、遺体は荼毘に付された。
そうやって勘三郎さんを身近に感じようとすることで、夫を失った喪失感を埋めようとした
好江さんだったが、やはりふとしたときに勘三郎さんを思い出し、涙を流すという。
4か月の壮絶な闘病の末、2012年12月5日、力尽きた勘三郎さんは東京・文京区の自宅へ
無言の帰宅をする。
「この間、姪っ子が家に泊まりにきたんです。彼の肉体がこの世から消えてしまうことが
耐えられなかったし、怖かったんです。
彼女の足を私の足にのせてもらったんですけど、いつも哲さんが寝るときに私の足にのせて
くれていた重さを思い出して、思わず泣いてしまいました」
いつまでも遺骨を近くに置き、勘三郎さんと一緒にいようと考えていた好江さんだったが
その考えを変えさせたのが、“勘三郎”ファンの思いだった。
その花束を見たときに、このかたたちも哲さんとお別れしたいんだなって感じたんです。
中村勘三郎さんの一周忌となる12月5日、妻・好江さん(54才)が、勘三郎さんが食道がん
と告知されてからの壮絶なまでの闘病生活と、それを支え続けた家族の絆を綴った手記
『中村勘三郎 最期の131日 哲明さんと生きて』(集英社刊)を出版した。
「毎月、月命日の5日に家の前にファンが花束を置いてくれるんです。
お墓があればファンのかたたちもお参りができますから、そのためにも納骨しようと
決意したんです。“中村勘三郎”は、みんなのものですからね」。
月が経つにつれて、その数は増えていって、多いときには30~40くらいありましたね。
好江さんは今度はお骨をずっと側に置いておきたいと願った。
「哲さん(勘三郎さんの本名・波野哲明さん)を何とか荼毘(だび)に付さない
でおきたいと思いました。
そのとき、ふたりで寝ていたベッドの哲さんが寝ていた所に彼女が寝たんです。
中村勘三郎 野田秀樹 大竹しのぶ【一周忌】
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通常、納骨は四十九日に行うことが多いが、好江さんは決して勘三郎さんを離そうとは
しなかった。
さらに好江さんはお骨の一部をダイヤモンドにして、それを指輪にして身につけている。
夫の親友である野田秀樹さんや大竹しのぶさんと一緒に夫の遺体を隠す計画も考えたほどです」(好江さん・以下「」内同)だが結局、死から10日後、遺体は荼毘に付された。
そうやって勘三郎さんを身近に感じようとすることで、夫を失った喪失感を埋めようとした
好江さんだったが、やはりふとしたときに勘三郎さんを思い出し、涙を流すという。
4か月の壮絶な闘病の末、2012年12月5日、力尽きた勘三郎さんは東京・文京区の自宅へ
無言の帰宅をする。
「この間、姪っ子が家に泊まりにきたんです。彼の肉体がこの世から消えてしまうことが
耐えられなかったし、怖かったんです。
彼女の足を私の足にのせてもらったんですけど、いつも哲さんが寝るときに私の足にのせて
くれていた重さを思い出して、思わず泣いてしまいました」
いつまでも遺骨を近くに置き、勘三郎さんと一緒にいようと考えていた好江さんだったが
その考えを変えさせたのが、“勘三郎”ファンの思いだった。
その花束を見たときに、このかたたちも哲さんとお別れしたいんだなって感じたんです。
中村勘三郎さんの一周忌となる12月5日、妻・好江さん(54才)が、勘三郎さんが食道がん
と告知されてからの壮絶なまでの闘病生活と、それを支え続けた家族の絆を綴った手記
『中村勘三郎 最期の131日 哲明さんと生きて』(集英社刊)を出版した。
「毎月、月命日の5日に家の前にファンが花束を置いてくれるんです。
お墓があればファンのかたたちもお参りができますから、そのためにも納骨しようと
決意したんです。“中村勘三郎”は、みんなのものですからね」。
月が経つにつれて、その数は増えていって、多いときには30~40くらいありましたね。
好江さんは今度はお骨をずっと側に置いておきたいと願った。
「哲さん(勘三郎さんの本名・波野哲明さん)を何とか荼毘(だび)に付さない
でおきたいと思いました。
そのとき、ふたりで寝ていたベッドの哲さんが寝ていた所に彼女が寝たんです。
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